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横井庄一

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横井庄一さんは、太平洋☆☆終結から28年間、グアム島のジャングルで自給自足の生活を送っていました。

横井庄一さん

1941年に太平洋☆☆が勃発し日本がグアムを一時☆☆したが、その期間は2年7ヶ月と短いものだった。1944年にはアメリカ軍の猛攻撃に敗れ奪還されてしまう。横井庄一さんは、この1944年からグアム島の歩兵第38連隊に伍長として配属していた。

同年7月21日にグアム南西のアサン、アガット海岸からアメリカ軍の上陸を許してしまう。その後8月11日まで日本軍の抵抗は続いたが、約1万8千人の日本兵が☆☆や自決で命を絶った。しかし米軍の制圧後も、日本兵の一部はジャングルへと逃げ込み翌年9月になってもゲリラ戦を続けるものもいた。  

圧倒的なアメリカ軍の火力前に日本軍に残された戦術は、潜伏することでありアメリカ軍の戦いは日本兵を探すことであったという。アサン地区には現在も洞窟が残っているものもあり、当時は数百もの穴を採掘したとされている。

その当時グアムに残っていた日本兵はポツダム宣言で日本軍の無条件降伏が発令されたことを知る余地がなかった。横井さんはジャングルや自ら作った洞穴などで生活、グアム派遣から約28年後の1972年1月24日に現地の猟師に発見され、同年2月2日に日本に帰還することとなりました。

横井さんは帰国後、空港に出迎えに来た(旧)斉藤厚生大臣に「何かのお役に立つと思って恥をしのんで帰ってまいりました」と伝えたと言う。またその後の記者会見では「恥ずかしながら生きながらえておりました。」と発言した。これは「戦陣訓」が徹底的に頭に焼き付いていた証である。

横井庄一さん帰国後の第一声

敵軍へ捕まることの強烈な恥の感覚、☆☆になることを戒める「戦陣訓」が、投降を潔いとしない多くの日本兵をジャングルに潜伏させたり、自決の判断になってしまったのかもしれない。横井さんは「生きて本土へは戻らぬ決意」で配属されたと考えると、帰国の際の第一声の「帰って参りました…恥ずかしながら、生き永らえて帰って参りました」というコメントは、横井さんにとっては大変な恥辱であったろう。しかし、あまりの時代錯誤のコメントに聞いたものは誰もが驚愕した。ちなみに、この「恥ずかしながら帰って参りました」はその年の流行語となった。

戦後の日本の変化に対して横井さんが適応できるかと心配されたが、驚くほど素直に現代の日本に馴染み、妻:美保子とも、めでたく結婚。その後、自身のグアムでのサバイバルについて耐乏生活評論家、あるいは生活評論家として全国各地で講演、1974年6月には第10回参議院議員通常選挙に立候補したというから驚きだ。

1997年に心臓発作で死去。享年82歳。

当時、グアムのジャングルに潜んでいたのは、もちろん横井さんだけではなかった。ゲリラ戦を展開しアメリカ軍を道ずれに相討ちしたもの多くいたという。戦後15年目の1960年には、16年間ジャングルに潜んでいた「皆川文蔵、伊藤正両軍曹」が島人に発見されている。


1964年には厚生省による「皆川文蔵」を含む日本調査団を結成しグアム島ジャングルを「日本兵がまだ2名生き残っている」という米国通信社の情報により、3週間探索が行われたが誰も見つけることができなかった。このときの調査がより徹底的に行われていれば、横井伍長はその後7年間ジャングルに潜むこともなかったのかもしれない。

「英雄」横井庄一

28年間、ジャングルで自給自足生活を送ってきた横井さんに、日本では強靭な生命力をたたえることはあっても「英雄」と呼ばれることはない。しかしグアムでは横井さん対し英雄視する一面もあります。

「横井さんはグアムでは英雄であり、尊敬されている。自分を自然に適応させ28年ものジャングルで生き延びた。そして彼は祖国を愛していた。」と、また「日本では英雄とされていないようだ。英雄というよりむしろ好奇の目で見られている。」と現地のチャモロ人が語る。タロフォフォ滝で配布しているパンフレットにも確かにこう印刷されている。「英雄 横井ケーブ」と。

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